『人喰いの大鷲トリコ』 口当たりのいい感動とポエム化

世界中のゲーマーが7年間、待ちに待った『人喰いの大鷲トリコ』。ちょっと解釈の難しい作品ではありますが、今回はその面白さと欠陥について考えていきます。

その前に、新海誠監督の『君の名は。』を巡るちょっとした騒動に触れておきたいと思います。本論まで少々お待たせしてしまいますが、話の枕としてお付き合いいただければ幸いです。

さきほど騒動と言ったのは、1つはマツコ・デラックスさんとの対談記事で井筒監督が言った、「あれは『映画』ちゃうから」という発言です。この言葉が意味するところは、自分(井筒監督)の定義、良識、常識が理想的な秩序あるいは規範であって、それから外れたものはクズで、映画作品ではないということです。

さらに言えば、そういうクズを支持する人もダメな奴というわけです。一体、彼はいつからそれほど偉い人になったのでしょうか。まるで自らがエリート(選ばれし者)であるかのような振る舞いは権威主義そのものであり、もはや滑稽でもあります。

もう1つ、騒動を挙げましょう。小説家の石田衣良氏の年頭所感です。そこには「たぶん新海さんは楽しい恋愛を高校時代にしたことがないんじゃないですか。それがテーマとして架空のまま、生涯のテーマとして活きている。」というコメントがありました。この言葉から察するに、同氏は「作品には、作者の内面や人生が色濃く反映されているはずだ」という考えを前提としているように思われます。

でも、作者自身の内面や人生が、作品のどのあたりに反映されているかなんて、どうして言い当てることができるのでしょうか。作品のどこからがフィクションで、どこまでがノンフィクションなのか、作者ですら説明はできないはずなのに。結局、石田氏のコメントは単なる言いがかりにすぎず、新海監督が困惑するのも無理はありません。

今回、なぜこの騒動を取り上げたかというと、『人喰いの大鷲トリコ』についても同じような問題が根底にあるのではないかという疑問に思い至ったからです。

『人喰いの大鷲トリコ』は、どの媒体でも軒並み高く評価されてはいるようです。しかし、それは、7年ぶりの大作であるとか、上田文人氏が手がけたタイトルであることへの賞賛がほとんどです。たとえば、「あるタイトルを何年もずっと心待ちにできる人こそが真のゲーマー」などと言ってみたり、「奇跡のようなゲームバランスこそ、上田文人さんというクリエイターの持ち味」という具合に。

どうも私には、年月や個人名をあたかも伝統やブランドであるかのように祭り上げ、架空の権威にすがっているようにしか見えないのです。確かに、上田氏は非凡なクリエイターです。だからといって、作品のテーマを上田氏個人にすり替えることはできません。

本作の初回限定版には『Fumito Ueda Material Book』というブックレットが同梱されています。全97ページありますが、そのうち60ページが上田氏の普段使う道具の紹介に割かれています。

どういう事情でこのような構成となったのか私は知るよしもないのですが、どう考えても、氏が使うコクヨの鉛筆シャープと本作は全然関係がありません。せっかく設定資料も掲載されているのですから、もっと本作への理解を深めるための内容であってほしかったように思います。

もちろん、石田衣良氏のように、作品と作者を対応させて解釈したいと考えている人は少なくないでしょう。しかし、上田文人氏は『人喰いの大鷲トリコ』の制作者であって、支配者ではありません。本稿では、『人喰いの大鷲トリコ』を制作者から引き剥がし、真正面から捉えることを私自身の課題としたいと思います。だからこそ、あえて問いたいのです。

「『それ』を、本当に面白いって思いましたか?」と。

 

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