『人喰いの大鷲トリコ』 口当たりのいい感動とポエム化

本作をスタートすると、まずは美しい背景に驚かされることでしょう。温かい日差し、風に揺れる草木など自然美に溢れています。では、この自然美が本作を名作たらしめているのでしょうか? 私はそうは思いません。

繊細な自然描写は、少年とトリコを生き生きと描くための演出のひとつに過ぎません。また、仮に、美しい情景こそが本作の面白さだと捉え、まるで「動かせる映画」のようなゲームだと解釈してみても、やはり不都合があります。それは、カメラワークの問題です。

本作のカメラワークについては、多くのプレイヤーが不便を感じたことでしょう。輝く青空や、緻密な天井画を見たくても仰角に限度があり、広く眺めることはできません。また、少年がトリコの体にしがみつく時や狭い通路では、画面内から少年が消えてしまい、進行方向が全くわからなくなってしまいました。

本作のカメラワークと操作性(操作の容易さ)については、他のレビュアーも「難がある」と指摘しているようですが、「難がある」どころの問題ではありません。美しくも謎に満ちた世界を歩き回りたいのに、せっかくの演出も台無しにしてしまうほどの欠陥ではないでしょうか。

また、謎解きのギミックでは、同じ行動を何度も強いるようなタイプが目立ち、操作性の低さと相まって、プレイヤーに大きなストレスを感じさせます。そして、何よりも残念なのが、トリコを足場代わりとしてしか利用できないという点です。トリコは誰も見たことがない生物なのですから、もっと画期的な方法で少年と謎解きに挑戦してもよかったのではないでしょうか。

©2016 Sony Interactive Entertainment Inc.

タイトルにもなっているトリコは、犬や猫を思わせる特徴があり、その仕草をみていると「うちで飼ってみたい!(もうちょっと小さかったら)」と思わずにはいられません。作品をプレイしているうちに、トリコにペットや我が子に対するような愛情を抱いた人も少なくないでしょう。その印象を決定づけたのは、あの感動的なラストバトルとエンディングです。

少年を守ろうと必死に戦うトリコに、プレイヤーは心を強く打たれたはずです。私も思わず涙しました。確かに感動はしたのです。しかし、同時に、「この作品は、これほど短絡的でいいのだろうか」という疑念もわき上がりました。ラストバトル以後のシーンは、まるでテレビのバラエティ番組でよく見る、野生動物にアテレコをしたような不自然なわかりやすさが付きまとってはいないでしょうか。

トリコは言葉を理解できません。少年(プレイヤー)がいくら指示を出そうとも、トリコは思い通りには動いてくれず、意思疎通のできない存在です。(成長して大人になった)少年のモノローグでは、「私の意思が大鷲に伝わるようになってきていた」と語られていますが、はたして本当にそうなのでしょうか。

言葉を交わすことができないという点では、トリコも野生動物も同じです。人間がアテレコによって物語に仕立てたところで、動物の気持ちなどわかるはずもありません。同様に、少年がいくつ樽(トリコの食料)を運んでも、体に刺さった槍を抜いてあげても、「わかり合えた」という感情は少年のエゴであり、誤解に過ぎないのかもしれません。

©2016 Sony Interactive Entertainment Inc.

結局、少年とトリコの間にある絆らしきもの、その存在と正体はプレイヤーの解釈に委ねられることとなります。私は、この解釈の委託こそが本作の面白さとなるはずだったのではないかと考えています。

『ワンダと巨像』『ICO』においても、なぜ守るのか、守る側と守られる側にはどのような関係があったのか、守った結果何を得られたのか、作中で語られることは多くありません。一般的なゲームでは当然のように用意されている設定が、『ワンダと巨像』『ICO』では非常に希薄なのです。だからこそ、クリア後に胸を突くような切なさがこみ上げ、その切なさを埋めるように、様々な考察がなされました。過去2作品をプレイしたことのある人は、本作にも同じような感動を求めていたのではないでしょうか。

しかしながら、本作は期待された方向ではないところに着地してしまいました。それが、あのラストバトルとエンディングです。同族とおぼしき大鷲たちと戦うトリコは、あきらかに少年のために戦っていたように見えます。尻尾を食いちぎられるほどの激闘は、少年とトリコの関係性を急激に明確なものにしました。それにより、物語はわかりやすくなったものの、過去2作品にあったような「解釈の広大な余白」は消失してしまったのです。つまり、感動のエンディングこそが、本作の特長を損なう、最大の欠陥だったと思うわけです。

©2016 Sony Interactive Entertainment Inc.

本作は、プレイヤーが当初求めていた感動とは異なるものを与える作品となってしまいました。このことに、プレイヤー(特に、過去の作品を知っているプレイヤー)の中には戸惑いを覚えた人もいるのではないでしょうか。しかし、最後に与えられた涙ものの結末はわかりやすい感動でした。違和感を覚えつつも、安易な感動で満足してしまったのかもしれません。

それを隠すように、どのメディアのレビューも、小田嶋隆氏の言う「ポエム化」が見られます。違和感から目を背けるために、感情のレトリックを必要としたのでしょう。だからこそ、私は本作をプレイした人たちに問いたかったのです。「『それ』を、本当に面白いって思いましたか?」と。

©2016 Sony Interactive Entertainment Inc.

わかりやすい感動は口当たりのいいものです。しかし、『ワンダと巨像』『ICO』で実践された解釈の委託に、本作も挑戦してほしかったように思います。解釈を委ねられたプレイヤーは、作品の考察のために時間を費やし、その時間が長いほど、その人にとっての感動は深く、名作という思い出になるからです。

説明の少ない作品は、あまり流行らない時勢です。だからこそ、「解釈の余白」への挑戦は意味があります。『ワンダと巨像』『ICO』と並ぶ、静謐でありながら挑戦的な作品が今後現われることを、一人のゲームファンとして願ってやみません。