ゲーム音楽を語ろう ゲーム音楽プロ交響楽団「JAGMO」の聴き方

特に見たい番組があるわけでもないのに、何の気なしにテレビをつけてしまうことがよくあります。時折チャンネルを変えつつ30分ほどダラダラと見るのですが、結局面白い番組を見つけられないまま無為に時を過ごしてしまい、ちょっと後悔するというのが私の日常です。(我ながら残念すぎる気がしてきました)

先日もテレビをつけっぱなしにしてぼんやりと眺めていたら、音楽番組で人の良さそうな男性アーティストが出演していました。ぽっちゃり体型の彼はいかにもおおらかな感じだったので、ついアコースティックギター片手にフォークソングでも披露してくれるのかしらなどと思ってしまったのですが、前奏が始まった途端、私はテレビを二度見せざるを得ませんでした。

というのも、流れてきたのはハイテンポの緊張感溢れるテクノミュージックだったのです。それから彼は何とも妙な歌詞を口にし始めました。J-POPにありがちな愛やら友情やらを語るのではなく、「歌詞にはメッセージ性なんて全く無くて ただ説明してるだけ 曲を説明してるだけなんだよ」と言い放ち、挙げ句の果てに口パクだったことをぬけぬけと白状して、歌の途中でペットボトルの水を飲む始末です。しかし、どういうわけか観客の興奮はますます高まり、「最後のサビ」で彼は叫ぶのです。「お前ら 覚えとけ俺が岡崎体育だ」。けれども、これも所詮は口パクに過ぎません。

ご存じの方はもうお分かりでしょう。私が聴いたのは岡崎体育さんの「Explain」という曲でした。タイトルの通り、全編にわたって歌詞は楽曲の“説明”に終始しています。「この辺りからピアノが入ってきていい感じになる」「ドラムのビートが速くなってきて サビ始まります」といった具合で、口パクであることも「実は口パクだったことをみんなにカミングアウト」という歌詞で楽曲に折込み済みの構成になっているのです。

さて、この楽曲を私たちはどのように理解すれば良いのでしょうか。もちろん、単なる悪ふざけと切って捨てることもできます。しかし、楽曲に特別な意味が込められていようがいまいが、録音だろうが生の歌唱であろうが、何となくノリだけで盛り上がれてしまうことを証明した問題(提起)作とも言えるのではないでしょうか。さらにうがった見方をすれば、単なるサウンドとして動物的に音楽を享受し、没頭する私たち(聴衆)に対する強烈なアイロニーそのものだとも解釈可能です。そう考えると、もはや構成の意図や歌詞に込められた意味をいちいち“説明”してもらわなければ理解できないほど、私たちの聴取は大きく退化しているということになります。

有名なアーティストが大規模なコンサートを開催すると、TwitterやFacebookでは参加した人たちの感想が怒濤のようにタイムラインへ流れてきます。皆一様に「すごい」「感動した」「グッときた」というような印象を述べたり、「誰々がどういう発言をした」「ステージはこんな装飾だった」などのレポートを書き込んだりします。

それが落ち着くと、今度は美辞麗句と過度な改行に彩られたポエムがちらほらと投稿されるようになります。ポエムはコンサートの感動をテーマにしたものではありますが、その多くが“コンサートに感動している自分”の物語にすり替わっていて、コンサート自体の良さはいまいち伝わってきません。どれほど素晴らしい演奏・歌唱だったとしても、いつの間にか私たちは音楽の表面だけを感覚的になで回すことしかできなくなっているのです。

多弁な音楽家たち

音楽聴取の衰えがいつから始まっていたのか、正直定かではありません。ですが、その一因としてマーケティングが深く関わっていることは明らかでしょう。本来、マーケティングは商品・サービスの価値を世の中に提示するための活動です。新しい機能や楽しみを紹介し、それがもたらす新しい生活を提案するために様々な取り組みが行われてきました。

しかしながら、その一方で、定型化されたカタルシスで消費者にただ涙を流させることを目的としたプロモーションが数年前から横行しているのも事実です。涙する人は言葉を失い、無抵抗です。そして、マーケターにとって物言わぬ消費者ほど扱いやすいものはありません。やがて音楽は、この悪しきプロモーションと強く結びつけられてしまいました。ある一定の激しい情緒を惹起させるには、音楽が非常に便利だったからです。その結果、音楽は感動のシンボルとして崇め奉られるようになり、聴衆が音楽を語るための言葉はどんどん失われていきました。

意図や解釈が脱落した隙間には、その楽曲に大して関係のない有名人の感動ストーリーが注入され、最終的にはサウンドのキメラと化してしまいます。こういった風潮に対する反動が、たとえば「Explain」であったり、NHKのテレビ番組「バリバラ〜障害者情報バラエティー〜」というような形で顕在化するようになりましたが、今でも一部のマーケターたちは「共感マーケティング」(本来の意味での共感ではないのに)などともてはやしたりしています。

私たちの音楽聴取はすっかり弱体化してしまいました。とにかく黙って目を閉じて、高尚っぽい何かを感じ取ろうと空回りばかりなのです。ところが、それとは対照的に音楽家は実に多弁です。中でも、音楽プロデューサーのヒャダインさんはその典型かもしれません。

私が毎週楽しみにしていたバラエティ番組「久保みねヒャダこじらせナイト」(フジテレビ)では、ヒャダインさんが、漫画家の久保ミツロウさん、コラムニストの能町みね子さんと共に「すき間ソング」という一風変わった曲を作るコーナーがありました。3人でホワイトボードにテーマや歌詞を書き出しながら、ヒャダインさんがキーボードで大まかな主旋律を作っていきます。

面白いのは、音符や音楽用語を使うことなく、おしゃべりをしながらどんどん曲ができあがっていくところです。「(曲の)ここで気持ちが爆発するから、X JAPANの『紅』みたいなシャウトがほしい」とか、「一旦メロディーを落ち着かせて、切ない気持ちを表現しよう」といった会話がポンポンと続き、ヒャダインさんはあっという間に一曲完成させてしまいます。この様子を見ていると、楽曲がいかに言葉で設計されているかがよくわかります。作曲・編曲とは、イメージを言葉で掴み、楽曲に意味を持たせていくという行為なのです。

多弁な音楽家はヒャダインさんだけではありません。日本初のゲーム音楽プロ交響楽団 JAGMO(Japan Game Music Orchestra)のプロデューサー・山本和哉氏もまた音楽について多弁な方でした。

▲JAGMO公式Twitterアカウントより

8月に開催されたJAGMOの公演「旅人達の追想組曲」で、私は山本氏に初めてお目に掛かる機会に恵まれました。公演直前で多忙を極める中、山本氏自らホールまで案内してくださり、大変嬉しかったことをよく覚えています。ロビーからホール内のプレス席まで5分程でしたが、その間、山本氏は公演に掛ける思い、特に『MOTEHR2』と『UNDERTALE』に対する解釈と、それを楽曲の構成に反映させていくために苦慮を重ねたことを話してくれました。穏やかそうな容姿とは裏腹に、熱を込めて語る様子は音楽家としてのプロフェッショナリズムに満ちていて、同時に、大好きなゲームを目の前にした少年のようでもありました。実際、公演のプログラムは『MOTHER2』の次に『UNDERTALE』が演奏され、「ウィンターズのテーマ」と「スノーフルのまち」は明らかに対の関係になっています。

ゲーム音楽の文法

音楽はジャンルを問わず、言葉で設計され、共有することができます。翻せば、音楽は文学のように“読み解く”ことが十分可能だということです。もちろん、実際に文字に起こされているわけではないので多少のコツは必要でしょう。音楽を読み解いたり、語ったりするためには、聴衆、作曲/編曲者、奏者の間に共通の“文法”がなくてはなりません。クラシックにはクラシックの、ゲーム音楽にはゲーム音楽の文法があるのです。「いまいち楽曲の良さがわからない/伝わらない」という時は、もしかすると、自分と相手の間に文法の違いがあるのかもしれません。

私は子供の頃、ピアノ教室に通っていました。その教室ではときどき発表会が催され、私はそこで自分の好きな曲を弾けることになりました。ちょうど『ドラゴンクエストV』(SFC)をプレイしていた時だったので、ゲーム内で使われている「天空城」を弾きたいと先生に申し出たのですが、手頃な楽譜が見つからず、似たような曲を先生に探してもらうことになりました。

ところが、先生が選んだのはシューマンの「トロイメライ」で、当時の私は大変がっかりしてしまったということがあったのです。今思えば、これは文法の違いによる誤読が起きていたのでしょう。私は「天空城」を“雄大な”曲だと捉えていました。ゲームの中では白亜の城が雲に包まれて空を飛んでいくのですから、それはそれは雄大な眺めであったろうと思っていたのです。

しかし、先生はゲームの内容を知らないまま、私の録音したテープ(当時はテープが主流だったんですよ)だけを手がかりとしていました。先生はクラシックの音楽家ということもあり、「天空城」をついクラシック音楽風に聴いてしまったのでしょう。確かに、クラシック音楽の文法に則れば、「天空城」と「トロイメライ」はどちらも穏やかな曲でイメージが近いかもしれません。けれども、ゲーム音楽の文法に従う私にとって、両者は似ても似つかないのです。「こんな眠たい曲なんか弾いてられるか!」というのが本音でしたが、結局は発表会でしぶしぶ弾くことになってしまいました。

用いる文法によって、楽曲の解釈が異なるのは珍しいことではありません。特に、ゲーム音楽のオーケストラ演奏は、ゲーム音楽とクラシック音楽のどちらの文法を用いるかで解釈が大きく変わってしまいます。

たとえば、ゲームファンにはお馴染みの『ゼルダの伝説』メインテーマも、イギリスの有名なオーケストラが演奏すると妙に豪華な感じになってしまいます。テンポは少しゆっくり目で、トランペットもフルートもとにかく華やかに旅路を彩り、騎士団の出陣パレードを思わせるような編曲になっているのです。クラシックで有名な行進曲というと「ラデツキー行進曲」がありますが、丁度そんな感じかもしれません。けれども、この華やかさはゲームファンにとって違和感でしかないでしょう。リンクが軍隊を率いたことはありませんし、馬を疾駆させて冒険することを知っていたなら、あんなもったいぶったテンポにはならなかったはずです。ゲーム音楽をクラシックの文法で曲解したために作曲者の意図も経緯もバラバラに解体されているという、ありがちな失敗例です。

一方、JAGMOはゲーム音楽を“ゲーム音楽の文法”で演奏してくれる貴重なオーケストラです。公演プログラムは『ファイナルファンタジー』や『テイルズ』シリーズなどの名作から最新作まで多岐にわたりますが、どれを聴いても、ゲームファンなら「そうだよ、これこれ!」と膝を打つこと間違いないでしょう。

中でも、ゲームのバトルシーンで使われる楽曲(戦闘曲)の演奏は格別です。ゲームにバトルは欠かせない要素で、戦いのシチュエーションも多種多様です。よくいるモンスターと遭遇したのか、互いの信念がぶつかり合う決闘か、それとも全滅寸前の苦闘か。JAGMOの演奏はその緊張感を的確に表現するのです。そして、戦いの後には勝利があります。クラシック音楽ではベートーヴェンの「交響曲第9番」(いわゆる「第九」)のように人間全てを賞賛する大歓喜で幕を閉じますが、ゲーム音楽におけるバトル後の歓喜はこれとは別物です。

私たちがボスモンスターを打ち倒した時の喜びは、もっとガッツポーズしたくなるような、達成感にも似た気持ちではないでしょうか。JAGMOの奏でる勝利のファンファーレは、正にゲームファンの喜びのために鳴り響いているのです。

JAGMOの公演では、ゲームタイトルごとに複数の楽曲を組み合わせた多楽章形式になっています。と言っても、ただ皆が聴きたい曲をセミコロンで並列させているわけではないのです。JAGMOの音楽を聴いていると、私は「そして」「しかし」「やがて」「その頃一方」「遂に」などの接続詞を感じずにはいられません。

ゲーム音楽の文法を駆使するJAGMOは、様々な接続詞で複雑な構成を築き上げていきます。ひとつのゲームタイトルで10曲ほど詰め込まれていることもあり、聴きながら文脈を追うのはなかなか大変ですが、だからこそ聴きごたえがあり、一曲が終わると心地よい疲労感が広がるほどです。その感覚は一作のゲームでエンディングを迎えた時とよく似ています。

また、公演全体をゲームタイトルをまたいだ超・多楽章形式の一楽曲として捉えてみることもできるでしょう。ゲーム音楽の文法で織りなされる壮大な構成こそが、JAGMOの真骨頂にほかなりません。