ゲーム音楽を語ろう ゲーム音楽プロ交響楽団「JAGMO」の聴き方

JAGMOは先駆者か、懐古主義者か

JAGMOは「ゲーム音楽を音楽史に残る文化にする」というビジョンを掲げています。これはゲーム音楽の愛好者にとって悲願とも言えるかもしれません。しかし、見方を変えれば、そのビジョンは単なるロマン主義のようでもあります。過去のゲーム体験を理想化する懐古主義に過ぎない、とアンチテーゼを呈することも十分可能です。

先駆者か、懐古主義者か。JAGMOはひどく危うい存在なのかもしれません。ゲーム音楽はその文法を介してゲームファンを強く惹きつける力があります。加えて、過去のゲーム体験と密接に絡み合ってもいます。問題は、この特性ゆえにゲーム音楽が容易に「共感マーケティング」と結びついてしまうことです。愛やら感動やらで飾り立て、ゲーム音楽を、言葉を超越した解釈不能なものへと祭り上げてしまえば、聴衆は盲目的な信者に成り下がるほかありません。ましてや、JAGMOは高い演奏技術を誇るオーケストラです。彼らにとって、ブリリアントな演奏で聴衆を押し黙らせるのは赤子の手をひねるように簡単なことでしょう。そうなれば、聴衆(信者)は演奏“技術”に感動するか、演奏に心打たれ涙する自分に酔うか、旧作ゲームをただ愛でるしかありません。そこでゲーム音楽は終焉を迎えます。JAGMOは自身が掲げるビジョンの裏で、聴衆から言葉を奪い、ゲーム音楽の息の根を止める殺戮者にもなり得るのです。

かつてメディアが共感マーケティングを無頓着に展開していたように、JAGMO(を含むゲーム音楽を演奏するオーケストラ)は自身の抱える矛盾にそれほど自覚的ではないかもしれません。では、ゲーム音楽が文化になっていくにはどうすればいいのでしょうか。

音楽の根底にはいつも言葉があります。ゲーム音楽を本当に支えていくにはもっと言葉が必要なのです。言葉を生み出していくこと、つまり音楽を語ることなのです。

ゲーム音楽を愛する人たちは、ゲーム音楽の文法を用いて解釈したり、話し合ったりすることができます。同じ語法を共有しているという点で、私たちは「ゲーム音楽文化圏」という共同体の一員と言えるのではないでしょうか。作曲/編曲する人、演奏する人、そして聴衆。楽しみ方の違いはあれども、「ゲーム音楽とはこういうもの」「ゲーム音楽はこうであってほしい」といった、それぞれの希望を持っているはずです。その希望を拠り所として、楽曲・演奏と自分がどういう関係にあり、何をもたらしたのか――それを自分なりの解釈として言葉ですくい上げ、組み立てて、話し合うことが、ゲーム音楽には今どうしても必要なのです。共感マーケティングは解釈を一様に塗りつぶす暴挙でした。一方で、共同体の中で「私はこう思う!」と言ってみるからこそ、オリジナルの解釈に気付くことができます。それこそが、音楽の奪われた言葉を取り戻すという行為なのです。

ゲーム音楽を語ろう

もし、これからJAGMOの公演を聴きにいくことがあるようなら、構成と演奏に織り込まれた音楽家たちの“意図”を探すように聴いてみてはいかがでしょうか。たとえば、選曲や楽曲の並び順には、そうでなければならない理由が必ずあるものです。構成や演奏でも、何故ここはソロ演奏なんだろう、この弾き方は悲しそうだろうか、寂しそうだろうか。それは誰の気持ちを表しているのだろう……色々と想像を巡らせると、時折音楽家たちの解釈が垣間見えるような瞬間がきっとあるはずです。

JAGMOの演奏曲の中では、特に『クロノ・トリガー』がお気に入りです。元々、原作のゲームが好きだということもありますが、演奏を聴くと、原作とはまた違った側面に気付くことができるからです。『クロノ・トリガー』は本来、時空を超えた群像劇がメインのRPGです。しかし、JAGMOの演奏ではあえて騎士カエルと魔王の決闘にフォーカスが向けられています。カエルの生き様と魔王の悲劇がコントラストを生み出し、その因縁が元凶ラヴォスとの戦いに収斂していくという新しいアイディアが楽曲構成に反映されているのです。

▲JAGMO公式Twitterアカウントより

今をときめく音楽家が、ゲーム音楽に対してどのような眼差しを向けているのか。そのことを考えると、私は本当に楽しくてたまりません。そして、その目線の先にゲーム音楽のどのような未来が見えているのでしょうか。語るべきことはまだまだたくさんあります。豊かな語彙が、音楽を聴く歓びを大きくしていくのです。