『人喰いの大鷲トリコ』 上田文人の三作品に見るキャッチコピーの役割

12月6日に『人喰いの大鷲トリコ』が発売されました。これまでも名作『ICO』『ワンダと巨像』を手掛けてきたゲームデザイナー・上田文人氏による約7年ぶりの新作です。既にゲーム系メディアでは、涙が止まらなかったとか、無償の愛がどうとか、色々な言葉で絶賛の嵐が吹き荒れています。それだけ『人喰いの大鷲トリコ』が傑作だったということなのでしょう。勿論、私もそう思います。

しかし、あまりに一様な激賞はどこか空回りしているような、それ以外の言葉を失ってしまったような違和感も伴います。心から感動したからこそ語ろうとしていたはずが、なぜか言葉が出てこない。では、その感動ははたして本物なのか、それともマーケティングによって計画的に生成された消費物なのか。上田文人氏の作品が私たちの中で呼び覚ます感動を、マーケティングの言葉であるキャッチコピーをベースにして検討します。

 

批評対象が個人へとすり替わる

さて本題の前に、新海誠監督の映画作品『君の名は。』を巡るちょっとした騒動に触れておきたいと思います。騒動というのは、1つはマツコ・デラックスさんとの対談記事で井筒監督が口にした「あれは『映画』ちゃうから」という言葉です。

言葉尻を捕らえるようですが、『君の名は。』は映画と呼べるものではないので映画として論じる価値がないという意味なのでしょうか。もしそうならば、自分の常識や規範から外れたものは箸にも棒にも掛からぬもので映画作品とは言えないということになりますし、そういうダメな作品を支持する人もダメな人といわんばかりです。一体、彼はいつからそれほど偉い人になったのかは定かではありませんが、いかにも“ご意見番”らしいふるまいは権威主義的で、もはや滑稽でもあります。

『君の名は。』をめぐる騒動をもう1つ挙げましょう。小説家の石田衣良氏の年頭所感です。そこには「たぶん新海さんは楽しい恋愛を高校時代にしたことがないんじゃないですか。それがテーマとして架空のまま、生涯のテーマとして活きている。」というコメントがあります。確かに、どのような作品であっても作者の内面や人生が全く反映されていないということはないでしょう。

しかしながら、それらが作品のどのあたりに反映されているかなんて、赤の他人がどうして言い当てることができるのでしょうか。作品のどこからがフィクションで、どこまでがノンフィクションなのか、作者ですら厳密には判別できないはずなのに。結局、石田氏のコメントは単なる言いがかりになってしまっていて、これでは新海監督が困惑するのも無理はありません。

そろそろ本題に入りましょう。私が一連の騒動を見ていて感じたのは、『人喰いの大鷲トリコ』についても同じような問題が根底にあるのではないか、ということです。『人喰いの大鷲トリコ』はどのゲームメディアでも軒並み高く評価されています。しかし、それは7年ぶりの大作であるとか、上田文人氏が手掛けていることへの賞賛がほとんどです。

たとえば、「あるタイトルを何年もずっと心待ちにできる人こそが真のゲーマー」などと言ってみたり、「奇跡のようなゲームバランスこそ、上田文人さんというクリエイターの持ち味」という具合に。ですが、開発期間が長いから名作だというのもおかしな話だと思いませんか。もちろん実績を見る限り、上田氏は非凡なクリエイターなのでしょう。とはいえ、彼が手掛ければ途端に“奇跡のような”作品になるわけではないのです。何を当たり前のことを、とお思いでしょうか。

けれども『人喰いの大鷲トリコ』を語ろうとすると、どういうわけか作品のテーマがいつの間にか上田氏個人にすり替わってしまいがちなのです。実際、(少なくとも国内では)上田氏の“持ち味”を賞賛するレビューが目立つのに、その“持ち味”を解説した記事はほとんど見かけません。

『人喰いの大鷲トリコ』に限って、どうしてこのような現象が起きてしまうのでしょうか。本作は物語の説明が少なく、ストーリーもやや難解な部分があります。そのために上手くレビューできるライターがあまり多くないことも理由の一つかもしれません。しかし、あえて異なる側面から指摘するならば、『人喰いの大鷲トリコ』ではそういった反響を見越した売り方(マーケティング)が展開されていたことに原因の一端があるように私には思えるのです。

 

「上田文人」ブランドの誕生

プレイしてみるとわかりますが、『人喰いの大鷲トリコ』はどうにも取っつきにくさがあります。操作性には難があり、道を開くためのパズルも後半は単調気味です。最近のゲームはユーザビリティの高い設計になっていますから、特に若い世代のユーザーにとっては大きなストレスになるでしょう。そのせいでプレイをやめたくなってしまっても不思議ではありません。

『人喰いの大鷲トリコ』はある意味で不備を抱えているとも言えます。そのために、不便さを乗り越えてでもプレイしたいという十分なエンゲージメント(愛着)を求められ、コアなファンに向けたマーケティングが重要になるというわけです。

ゲームビジネスのマーケティングにおいてエンゲージメント施策は必須となりつつあります。けれども『人喰いの大鷲トリコ』ではゲームの内容よりも、ブランド化・神格化されたゲームクリエイター「上田文人」を称揚してしまってはいないでしょうか。

本作の初回限定版には『Fumito Ueda Material Book』というブックレットが同梱されており、全97ページのうち60ページが上田氏の普段使っている道具の紹介に割かれています。どういう事情でこのような構成となったのかはよくわかりませんが、どう考えてみても上田氏が本作で表現しようとしたテーマと、コクヨの鉛筆シャープは全く関係がないはずです。身の回りの品々からゲームを批評しようという高度な試みだったのでしょうか。

しかしながら、ブックレットは物品の紹介に終始してしまっていて、まるでカタログのようです。こうなってはもはや文房具やら装飾品やらに「上田文人」ブランドを焼き入れているようにしか見えません。本人の意図などそっちのけでブランドだけがふんぞり返って一人歩きをしている。そう思うと折角のブックレットもいかにも滑稽に見えてきます。

テーマやゲーム的な面白さではなく、「上田文人」ブランドを先行させてしまう。エンゲージメントの名の下にこんなマーケティングをやっていれば、市場のリアクションもおかしな方向に変質していきます。

今回のケースで最も大きな問題は、「上田文人」のゲームに感動することが売り物となってしまっている点です。「上田文人」のゲームなのだから感動的なエンディングが待っているはず。その感動を理解できてこそ真のゲーマーだ。――丁度良いことにゲームの終盤ではトリコの激しいバトルシーンもあり、TV番組のようにいかにもセリフを当てやすそうな場面が続きます。エンディングでは期待通りに泣けるポイントがちゃんと用意されていて、口当たりの良い感動を消費した人々は大喜びで「上田文人」を称え、あるいは感動した自分を表現するために自己陶酔的なポエムを綴るようになります。

この状況は確かにマーケターの狙い通りでしょう。しかし、何もかもを感動一色に染め上げ、それを理解できない人は真のゲーマーではない、と言いたげな雰囲気は端から見れば異様でしかありません。

 

印象的なキャッチコピー

上田文人氏の監督作品である『ICO』『ワンダと巨像』そして『人喰いの大鷲トリコ』には印象的なコピーが添えられています。

この人の手を離さない。僕の魂ごと離してしまう気がするから。

– 『ICO』

最後の一撃は、せつない。

– 『ワンダと巨像』

思い出の中のその怪物はいつも優しい目をしていた。

少年と巨獣が紡ぐ、新たなる神話。

– 『人喰いの大鷲トリコ』

ICO

いずれも叙情的で美しい文章ですが、それだけが秀逸だというわけではありません。たとえば、『ICO』は主人公イコが謎の少女ヨルダの手を引いてダンジョンを進んでいくという形式のゲームであり、二人が離れすぎてしまうとヨルダは黒い影に襲われてゲームオーバーになってしまいます。

つまり、『ICO』は“手を繋いでいなくてはならない”、“離れると死んでしまう(ゲームオーバーになる)”という2つの大きなルールで構成されていて、キャッチコピーを目にすればそのルールが自然と想起されるようになっているのです。

ワンダと巨像

上田文人氏の三作品はいずれも説明が極端に少なく、UIによるガイドもほとんど表示されません。ですから、ゲームの仕組みをゲームではないところで予め十分に伝えておく必要があります。しかし、だからといってあれこれと長い文章で説明してはせっかくのコンセプトが台無しです。そうではなく、一節の文章だけで、見た人がプレイに必要な体勢を整えることができる。それが三作品のキャッチコピーに共通する特長です。

『ワンダと巨像』でもやはりキャッチコピーが効いていて、巨像への最後の一撃が勝利のカタルシスではなく、どこか空しさや疑念を感じさせることに気付かされます。

さらに、3つのキャッチコピーは私たちに謎を問いかけるものでもあります。『人喰いの大鷲トリコ』のトリコはタイトルの通り、人喰いの怪物と恐れられていて、ゲーム冒頭では主人公の少年もトリコに食べられてしまいます。普通に考えれば、トリコは近づくべき存在ではない、むしろ倒すべきモンスターであるように見えるでしょう。けれども、それと同時にプレイヤーの脳裏にはあのキャッチコピーがよぎるはずです。

「思い出の中のその怪物はいつも優しい目をしていた。」

人喰いの大鷲トリコ

そう思うと、黄緑色に光る不気味な瞳もまるで子犬の可愛らしいまん丸の目のように見えてきます。(大きさにはずいぶん差がありますが) 少年へ向ける優しい眼差しと、人を食らう獰猛な姿。一体どちらがトリコの本性なのでしょうか。プレイした人ならもうお気づきかと思いますが、キャッチコピーをきっかけに生まれたこの謎はやがて物語の核心へと繋がっていくのです。

同じように、『ICO』ではイコとヨルダがいかにして心を通わせていくのか、『ワンダと巨像』では勝利を決める一撃がなぜ切なくなってしまうのか、という疑問を抱かせます。そして、キャッチコピーから投げかけられた謎はプレイヤーをエンディングへと向かわせる大きな推進力として機能します。こうして考えてみると、3作品のキャッチコピーが、単に目を引こうとするだけのありがちなものとは一線を画していることがわかるでしょう。

 

完璧な自然美と卑小なる人間界

三作品を通して興味深いのは、いずれも主人公が人間社会に留まることのできない存在だという点です。イコは頭に角が生えてしまったことから13歳で生け贄として霧の古城に連れて行かれ、ワンダは禁じられた術によって少女・モノの魂を蘇らせようとします。どちらも“掟破り”です。『人喰いの大鷲トリコ』の少年はトリコにさらわれる形で強制的に社会を離れますが、人ならざるものと協力して生きていこうとする彼もまた異端者であると言えます。

そうして人間社会から離れた主人公たちが目にしたのは、絵画のような完璧な自然美と巨大な謎の建造物でした。トリコも人知を超えた生物であり、人間のスケールを遙かに超えた大きさと力があります。ゲームのどのシーンでも自然の豊かさが織り込まれ、特に『人喰いの大鷲トリコ』はPlayStation4の描画性能によって日差しの温かさまで感じられるほど丁寧に描かれています。外の世界は驚くほど静謐で美しいのです。


片や人間社会のいかに卑小で残酷なことか。物語を進めるうちに理不尽な現実が見えてきます。

イコに手錠を掛けながら神官はこう呟きます。「我々を恨むのではない。全ては村の為なのだ」と。『ワンダと巨像』では、最後の巨像を討ったワンダの身に異変が起こり、頭には角が生え、目は青白く光る不気味な姿になってしまいます。それを見たエモン(長老のような立場の老人)は禁術に手を出したことを激しく叱責し、「忌み嫌われ生き長らえるより、せめて葬ってやるのだ」と言い放って部下にワンダの胸を剣で刺すように命じます。エモンは人間社会のルールに則ってワンダを見捨てたのです。ワンダはただモノを救いたかっただけなのに。

『人喰いの大鷲トリコ』では更に過酷な一面が暴露されます。外の世界には少年の暮らしてきた文化圏とは異なる文明があるようで、その謎の文明の人間たちが大鷲を意図的に凶暴化させていました。また、トリコが空腹の時によく欲しがっていた「樽」の中身は、少年と同じようにさらわれてきたとおぼしき子供たちが加工されたものであることが示唆されます。(ファンの間では諸説ありますが) もしそうならば、フィールドのあちこちに無造作に転がっている「樽」、そして少年がトリコのためにせっせと集めてきた数々の「樽」、それらを思い返すとぞっとして言葉が出ないほどです。

しかし、謎の文明の人間たちにとってはトリコも少年も“使える物”に過ぎず、残酷などとはちっとも思っていないのかもしれません。何をもって残酷とするかは、その社会によって変わります。だから自分たち以外に対してならいくらでも無関心になれる。これはゲームの中だけの話ではありません。これを書いている私もどこかでそう振る舞っているのかもしれないし、これまでの歴史においても、ひいてはSNSや日常生活で今も尚、現在進行形で続いています。

人間社会はルールと損得勘定がいつも優先されます。それは『ICO』で神官が掟に従ってイコを生贄に捧げたように、『ワンダと巨像』で禁を犯したワンダをエモンがあっさり見捨てたように。あるいは『人喰いの大鷲トリコ』で描かれた謎の文明のように。自分の村(社会)のためなら少しくらいの犠牲は仕方がない、そういうルールでここまでやってこれたのだから。

そうやって誰もが当たりたくない宝くじを引かされる社会は確かに平等かもしれませんが、誰にとっても窮屈です。自由で調和の取れた美しい自然世界を思えば余計にそう感じます。ですが、それでも、暗い密室のような社会の中で上手くやっていくしかないという矮小な結論に決して留まらないのが、上田文人氏の三作品ではないでしょうか。

 

キャッチコピーとは寓意への手がかり

イコは生贄にされてしまいましたが、人間そのものを恨んだり、孤独に生きようとはしませんでした。古城の中で初めてヨルダと出会った時、彼は素直に「きみもこんなところにいると、あぶないよ。とにかくここから出ようよ」と手を差し伸べます。また、ヨルダを思いやる心はやがて彼女を支配する母・女王と戦う動機にも繋がっていきます。

二人は協力して城の仕掛けを解いて脱出を試みます。その間、交わされる会話は多くありません。ですが、イコの優しさが繋いだ手を介してヨルダへと伝わり、女王に抑圧されていた感情の営みを少しずつ取り戻していくのが不思議と感じられます。それはR1ボタンを押して手を繋いだ瞬間にコントローラーから伝わる弱い振動や、二人の息の合った協力で城の仕掛けを解くという経験の積み重ねによるものです。もちろん、それはコントローラーのバイブレーション機能による演出に過ぎません。仕掛けを簡単に解けるようになるのもプレイヤーのスキルが向上したからでしょう。けれども、プレイを画面を通して見ると、二人の魂は繋いだ手を介して確かに通い合っている。

そして、このような解釈の成立に先立ってあるのが、「この人の手を離さない。僕の魂ごと離してしまう気がするから。」という、あのキャッチコピーです。キャッチコピーとは、プレイヤーがそのゲームに織り込まれた寓意(宮台真司の言う「〈世界〉は確かにそうなっているという納得」)に到達するまでの手がかりとなるような言葉でなければなりません。

『ワンダと巨像』でもキャッチコピーが物語の深部に作用しています。ワンダはモノの魂を蘇らせるために巨像と戦い続けました。しかし、物語の終盤で、ワンダは冒険を導く謎の声の主・ドルミンに唆されていただけだということが判明します。ドルミンは巨大な怪物で、その力を封印するために16体の巨像があったのです。たかだか少女一人のためにとんでもない怪物を復活させてしまった。そう思ってエモンはワンダを処刑しようとしたのでしょう。

確かにワンダは(いかにもそういう出で立ちをしているのに)勇者でも王子様でもなく、怪物の手のひらで踊る愚か者でしかありませんでした。けれど、それでも私たちはワンダを冷笑できないはず。なぜなら「最後の一撃は、せつない」から。巨像に止めを刺す一撃に、あるいはワンダ自身が受けた最期の一撃に、私たちはこれまでワンダが生き抜いてきた鮮やかな姿――エモンの目には狂気として映ったであろう――を見るからです。ワンダはドルミンと共に封印され、結局モノの目覚めに立ち会えずに終わります。でもバッドエンドかというと、むしろエンディングは不思議な幸福感に包まれます。そう感じるのはやはり「最後の一撃は、せつない」というキャッチフレーズが、ワンダの死(失敗)ではなく、彼のモノを思う心にフォーカスしているからです。

 

絆の再生産に利用される「作品」

では『人喰いの大鷲トリコ』ではどうでしょうか。物語の最後ではトリコは満身創痍になりながらも、少年を彼の故郷へと送り届けようとします。しかし、集落に到着して助けられた少年はトリコに「あっちへ行け」という意味のサインを出します。なぜなら、突然現れた大鷲に大人達はすっかり混乱し、今にも槍を持ってトリコに飛びかかろうとしていたからです。後に成長した少年(オールドマンという語り手)はこの時のことを「どうすることもできず(中略)立ち去るように指示をするしかなかったのだ」と愛惜の念を込めて振り返っています。

プレイヤーはトリコと少年の間にはかけがえのない経験が刻まれていることを一番よく知っています。けれども、少年は人間であり、一方トリコは人知を超えた自然界の住人であり、同じ世界で共に生きることはできない関係です。トリコに怯える大人達を見た少年は、朦朧(もうろう)とした意識の中でそのことを悟り、あえて結ばれた絆をほどく決意を固めたのでした。

私たちは絆の強さを閉鎖性で測ってしまいがちです。しかし、自分の全てを受け止めてくれる関係(究極の二者関係と言えるかもしれません)は極度に排他的でもあります。わたしとあなた以外はいらない。わたしを否定したり理解できない人たちはいらない。それは丁度、「上田文人」ブランドをやたらとありがたがる態度によく似ています。「上田文人」だから素晴らしいゲームだ。このゲームに感動できる人こそが真のゲーマーだ、と。さて、この状況を見て、エンゲージメント施策は大成功したと、はたして言えるのか。

エンゲージメントを向上させようとすれば多少なりとも排他的な力が働きます。だから私たちは互いの繋がりを感じることができるのでしょう。しかし、『人喰いの大鷲トリコ』のケースのような、過度にエンゲージメントを求める感動マーケティングは時に作品としての価値をゆがめてしまいます。『ICO』『ワンダと巨像』におけるプロモーションが秀逸だったのは、傑出したキャッチコピーによって作品の寓意を正しく受け取るための構えを取らせることに成功していたからです。

「思い出の中のその怪物はいつも優しい目をしていた。」「少年と巨獣が紡ぐ、新たなる神話。」 どちらも激烈な友情を表現するフレーズではありません。そもそもトリコは言葉もわからないし、ひどく気まぐれな性格です。少年は心が通じ合っていたと述懐していますが、トリコもそう思っていたかは結局定かではありません。少年のエゴとも言えます。しかし、『人喰いの大鷲トリコ』でモチーフとなっていたのは友情の純度や強さよりも、どんな絆もいつかはほどかれるということ、そして関係の持続性よりも変化を選んだ少年の尊い決意だったのではないでしょうか。そう思えば、2つのキャッチコピーの意味も明瞭になります。

ところが、「上田文人」ブランドの感動マーケティングでは焦点が完全にズレてしまっています。少年とトリコの関係を、ユーザーと「上田文人」ブランドに安易に読み替え、絆を結び直そうとする。その結果として作られたのがあの場違いなブックレットです。エンゲージメントの再生産(絆の結び直し)で得られた感動はストレス解消にはもってこいでしょう。感動して涙を流せれば、それでスッキリ。しかし、それでは感動自体が商材となってしまい、ゲームは作品(アート)ではなく、もはやただのノベルティでしかありません。「絆はいつかほどかれる」という寓意もほとんど行方不明になってしまいました。

つまり、作品のためのマーケティングが、作品を利用したマーケティングになってしまっている。

感動一色のリアクションは、マーケティングの手段と目的が完全に転倒していることを示しています。ゲームを作品たらしめるマーケティングとは何なのか。『人喰いの大鷲トリコ』のケースはゲームビジネスに携わるマーケターに問いを投げかけています。

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